子どもの優しさに、立ち尽くした日

大人になればなるほど、

人の態度に理由をつけてしまう。

あの人はこうだから仕方ない

距離を取った方が自分を守れる

傷つかないためには、心を閉じるしかない

そんなふうに、

私はずっと「守り方」を考えて生きてきた。

だからこそ、

身近な大人から冷たい態度を向けられる我が子に対しても

「無理に敬わなくていい」

「嫌な言葉は聞かなくていい」

「傷つかないでいい」

そう伝えてきた。

それは、

この子を守るための言葉だったし

同時に、私自身が耐えられなかったからでもある。

ある日、その大人が大きな試合を終えて帰ってきた。

空気は、正直ぎこちなかった。

いつも通り、距離があるままの関係。

そんな中で、

子どもは何のためらいもなく声をかけた。

「試合どうだった?」

「勝った?」

「おめでとう!」

その声には、

期待も、媚びも、計算もなかった。

ただ、

“相手の出来事をちゃんと受け取る”

それだけの、まっすぐな言葉だった。

その瞬間、

胸の奥がざわっとした。

私はこれまで、

「嫌われてもいい」

「愛されなくてもいい」

「距離を取っていい」

そうやって心を固めて生きてきた。

でもこの子は、

傷つくかもしれない世界の中で

それでも優しさを差し出す選択をしていた。

それは、強さだった。

我慢でも、犠牲でもない。

誰かを許すこととも、迎合することとも違う。

自分の心を汚さない強さ。

正直に言うと、

私はその姿を見て動揺した。

「私の方が弱いのかもしれない」

そんな感情が、ふっと浮かんだ。

大人になるほど、

正しさや防御を身につけて

気づかないうちに

“純粋さ”を置いてきてしまう。

でも子どもは、

まだそれを手放していなかった。

子どもは、

守られる存在だと思っていた。

でも実際は、

大人が忘れてしまった大切なものを

何度も思い出させてくれる存在なのかもしれない。

強さとは何か

優しさとは何か

人としてどう在りたいか

言葉では教えられないことを、

背中で教えられる。

子育てをしていると、

教えることよりも

学ばされることの方が圧倒的に多い。

そして最近、心から思う。

子どもから学ぶことは、本当に多い。

それに気づけた自分と

それを気づかせてくれた我が子をとても誇りに思う。

私の夢はメルセデスじゃない

『その上のメルセデスマイバッハなの。

何が言いたいかというと、今では満足していない。してはいけない。ということ。

だから今の環境が名残惜しく留まるのは違うよね。

だったら一度全て手放してもう一度作り直したい。そして今度は今よりも上に行きたい。』

ここ最近色んなことを考える。人生の大きな分かれ道の手前まできているように感じる。あとは背中をポンと押してくれる何かが欲しい。

笑顔の連鎖

幸せって、気づくことなんだね。

いつも行くコンビニの店員さん。

いつも気持ちのいい挨拶と、優しい対応、そして何気ない会話。

コンビニを出た瞬間、

ふと自分が笑顔になっていることに気づいた。

こんな小さな出来事、

日常の中に溶け込みすぎて、

つい見過ごしてしまうことも多いけれど、

きっとこういう瞬間こそ「幸せ」なんだと思う。

幸せって、夢が叶ったときや、

理想の自分になれたときだけにあるわけじゃない。

本当はもっとずっと身近にあって、

自分の心がそれに気づけるかどうかなんだろうね。

そして今日、改めて思ったよ。

「誰かを笑顔にできる」って、

本当に素晴らしいことなんだね。

あの店員さんの笑顔が、

あたしの心をこんなにも温かくしてくれたように、

あたしも誰かの心を少しでも明るくできる人になりたい。

叱るのは1人でいい。

パパとママの“チーム”としてのしつけ方

子どもを叱る瞬間って、親にとってもすごくエネルギーを使う時間ですよね。

ママが真剣に子どもを叱っている時に、横からパパも入ってきて一緒に叱る──

そんな場面、ありませんか?

「一緒に叱ったほうが子どもに伝わる」と思っての行動かもしれません。

でも実は、それが逆効果になることもあるんです。

💡叱るのは“1人で十分”な理由

子どもは、同時に複数の人から叱られると、

「何がいけなかったのか」よりも「怖い」「責められている」という気持ちが先に立ってしまいます。

そうなると反省よりも萎縮してしまい、心が閉じてしまうんです。

ママが叱っているときは、パパは“見守る側”に。

パパが叱っているときは、ママがフォローにまわる。

そんな“役割分担”があるだけで、家庭の空気はぐっと穏やかになります。

チームとしてのしつけ

夫婦でしつけの方向性を話し合っておくことはとても大切です。

例えば、

叱るタイミング 、言葉のかけ方 、叱った後のフォロー

これを共有しておけば、子どもは「ママとパパは味方なんだ」と感じることができます。

親が一枚岩であることは、子どもにとって安心の土台になります。

叱るのは「責めるため」ではなく「育てるため」。

だからこそ、同じ方向を向いて、支え合いながら子どもと向き合える関係でいたい。

これを理解してくれるパートナーがいいなと思う。

お互いを尊重しながら、チームとして協力し合える関係を築いていけたら1番理想ですよね。

義母との関係に悩む妻は少なくないのかもしれない

夫の母とうまくいかず、心をすり減らしている妻は、きっと少なくないと思う。

私自身も、もう半年以上、義母と会話を交わしていない。顔を合わせないよう避けるようになってしまいました。

少し前までは違っていたんだけど…

去年の終わり頃までは、私は義母に敬意を払い、夫が母を雑に扱う姿を見ては「そんな態度はやめなさい」「もっと大事にして」とさえ伝えていました。

ところが、大きな夫婦喧嘩をきっかけに義母の本性を見てしまった瞬間から、私の中で何かが壊れてしまったのです。

「感情的」だと片づけられてしまう私

私は決して完璧な妻ではない。けれど、私が声を荒らげてしまう時には必ず理由があります。

多くは、夫が子どもたちに対して心のない言葉を平気で投げかけたり、厳しすぎる叱り方をした時。そこだけが、どうしても見過ごせませんでした。特に夫が感情のままに怒る相手は上の私の連れ子たちだから尚更。

彼が不器用なのは私は理解しているし、何を伝えたいのかもわかるが、それが子供たちに伝わらなければ、彼はただ怒りをぶちまけている。で終わってしまう。子供たちは学ぶどころか、「僕たちの事が嫌いだから」「私たちが役に立たないから」と心に傷を負う。

だから毎回「その伝え方はやめて」と伝えるんですが…

けれど夫や義母の中では、原因には目を向けず、ただ私が“感情的にわーわー騒いでいる”としか映らないらしい。結果、悪いのはいつも私。

しまいには義母が「私に精神疾患がある」と周囲に言いふらした時には、本当に心が折れそうになりました。ただでさえ知り合いは少ないのに、そんな人たちのところに言いふらされたら私はますます拠り所がなくなり、孤独感に押しつぶされました。

父の思い、義母の嘲笑

事態は深刻になり、私の両親がわざわざ沖縄まで来てくれたこともありました。普段ほとんど口を開かない父が、重い腰を上げてまで話に来たのです。それほど大きな問題だと理解していたから。

けれど後日、人づてに耳にしたのは衝撃的な話でした。義母は「話が長くなりそうだったから、私嘘泣きまでしちゃった」と、笑いながら話していたという。

その瞬間、私の中で何かが完全に切れました。産まれて初めて「心から人を嫌いになる」という感覚を知った気がしました。

挙げればきりがありません。

私を「妖怪」と呼んだこともある義母。愚痴を言いたいわけではありませんが。ただただ、、悲しくて…本当に残念で… 深く傷つきました。

そして、人として大切にしていた信頼や敬意が、簡単に踏みにじられることもあるのだと学びました。

義母との関係に悩む妻は決して私だけではないと思う。

「どうしてわかってもらえないんだろう」と苦しむ気持ちや、尊重されない悲しさ。そうした感情を抱えている人たちがこの記事を読んで、少しでも「自分だけじゃない」と思えるなら、この体験を書いた意味があるかもしれない。

私は結婚生活において本当に色んな事がありすぎて書き切れないくらいなのですが、その分の学びもあったしこれからもあるはずなので、少しずつでもここに綴っていけたらなと思います。

音楽は人と人を繋ぐ大切な文化

音楽のない人生はどのようなものでしょうか ?

お祭り、結婚式、卒業式、誕生日――どんな場面にも音楽があるので、それがなくなれば、共有する喜びや記憶が薄くなって、儀式やイベントも淡々としたものになってしまう気がする。歴史や伝統の一部も大きく失われてしまうんじゃないかな。

また、感情を表現したり、癒やされたりする手段のひとつでもあるので、それを失うということは、嬉しいときに歌うことも、悲しいときに寄り添ってくれるメロディも存在しないということだから、この世界が少し色あせて感じるかもしれない。

そんなこと今まで考えたこともなかったけど、今こうやって考えてみたら結構重大なことだね!

思いやりとは

思いやりは、時に自己満足になりがち

「思いやり」とは本来、相手を大切にするための行為のはず。

けれど実際には、自分が “良かれと思って” したことが、相手にとっては少しも響かないことがあります。

むしろ「ありがたいけど、ちがう」とモヤモヤが残ってしまうことも。

このギャップこそが、夫婦関係や人間関係を難しくしているのだと思います。

すれ違う思いやり

例えば、ある人は「出産のときにそばにいて支えてくれること」や「つらいときに『大丈夫?』と声をかけてくれること」のように、心に寄り添う存在を求めています。

一方で、別の人は「便利家電をそろえて家事を楽にすること」こそが最大の思いやりだと考えるかもしれません。

電動掃除機や食洗機を揃えれば、確かに家事の負担は減るし、そこには相手なりの気遣いや投資は確かにある。

けれど――もし相手が本当に欲しかったのが “心の支え” だったとしたら、その思いやりは届かないまま終わってしまうのです。

本当の思いやりとは

「自分がしてあげたいこと」ではなく、「相手が何を求めているか」を想像することから始まります。

相手の欲しいものを知らずに差し出す行為は、残念ながらただの自己満足にすぎません。

だからこそ大切なのは、“してあげること” ではなく“寄り添う姿勢”

「今、あなたは何を必要としている?」

その一言を持てるかどうかで、関係の深さは大きく変わります。

思いやりを形にしていく

思いやりはすれ違うこともあります。

でも、そのすれ違いに気づいた瞬間から、関係をやり直すことはできる。

大切なのは、特別な行動や高価な贈り物ではありません。

隣で話を聞くこと、温かい言葉をかけること、そして相手の気持ちに関心を向けること。

小さな積み重ねが、やがて大きな信頼となり、家族や夫婦の未来を支える力になります。

思いやりを「自己満足」で終わらせるのか、「相手の心に届くもの」に育てていくのか――それを選ぶのは、私たち一人ひとりなのかもしれません。

息子に聞かれた”大切なこと”

昨日、息子とこんな会話をしました。

息子「ママ、一番嬉しかったことなに?」

私「(迷わず)あなたたちを産んだことだよ」

息子「じゃあ、その次は?」

私「周りに素晴らしい人たちがいること。人に恵まれたことかな」

息子「じゃあ3番目は?」

私「こうやってあなたたちと出かけたり、いろんなことができる環境があること」

正直、こんなふうに改めて“自分にとって嬉しかったこと”を考える機会って、今までなかった気がします。

子どもに問いかけられて、初めて立ち止まって心に浮かんだ答え。

それはどれも「当たり前のように見えて、実はとても大切なもの」でした。

子どもとの何気ない会話の中に、気づきをもらえることがある。

昨日はまさに、そんな一日でした。

「一番嬉しかったことは?」

そう聞かれた時、みなさんならなんて答えますか?^_^

朝日が教えてくれた事

みなさんは、「ただ生きていること」に感謝した瞬間はありますか?

ある日の朝、階段の窓から差し込む光に私はふと目を向けました。

それは毎日のように見ているはずの朝日。

でもその瞬間だけは、なぜか胸がじんわり温かくなって…ただただそれを感じていました。

その瞬間はなんの感情か、考えもしなかったのですが、後にその感情と向き合い、気づきました。

家があること、子どもたちと過ごせること、こうして朝日を見て、今日も生きていること。

普段は気にも留めない「当たり前」のひとつひとつが、とても尊く素晴らしいもので、

その素晴らしさに感動した瞬間だったんだと。

もしかすると、忙しい日々の中で見落としていた幸せを、朝日がそっと教えてくれたのかもしれません。

日常は繰り返しのように見えるけれど、同じ瞬間は二度とない。

だからこそ、ほんの一瞬でも心から「ありがたい」と感じられたこと自体、とても大切な瞬間だったんだと思います。

次に朝日を見たときに、また同じように感じられるかはわかりません。

でも、その不確かさも含めて「今を生きていること」が奇跡なんだと、あの日の朝日が教えてくれたように思います。

—————日常の中にある何気ない景色に、心が動くことがあります。

その小さな感覚を見逃さず、”大切にしていきたい” そう思えた朝でした。

私だけの “ 空間 ”

家の中はいつもにぎやかで、バタバタで、愛おしい。

でも、そんな毎日のなかで、ほんの少しだけ “自分だけの時間” がほしくなることもある。

このドレッサーの前に座ると、私は少しだけ「わたし」に戻れる気がする。

子どもが5人いる毎日。

日中はとにかく、誰かのために動いていて、自分のことは後回しになるのが当たり前になった。

でも、だからこそ私は、「わたしだけの場所」を大切にしている。

それが、このドレッサーの前。

お気に入りのスキンケア、リップ、香水。

少しずつ集めてきたアイテムたちを並べたこの場所は、

誰にも邪魔されたくない、私だけの小さな世界。

子どもたちが寝静まったあと、

静かな部屋で椅子に座り、鏡に向かってクリームを塗る。

ただそれだけなのに、心がスーッと整っていく。

「ママでもなく、妻でもなく、“わたし”でいられる時間。」

メイクをばっちりするわけじゃない。

誰かに見せたいわけでもない。

だけど、肌に触れて、香りを感じて、

少しだけ背筋を伸ばすその時間が、

私に「大丈夫だよ」って言ってくれてる気がする。

ドレッサーはただの家具じゃなくて、

“ 心を整える場所 ”だと思ってる。

誰にも見られなくても、

きっとこの場所があるから、私はまた明日を迎えられる。

日々に流されそうになるとき、

この場所に戻ってくると、自分を思い出せる。

わたしが、わたしでいるために。

ほんの少しだけでも、大切にしていたい空間。